イタリアでも東奔西走の記
2012.9.1 その5 ミラノ

ミラノに着いたまさにその日、カドルナ駅前で見かけて以来ずっと思いを募らせていた1番のトラムに、はじめて乗車します。おぉ、内部はこんな様子なのですね。つややかな木製のロングシートに胸がときめきます。

     

いちばん後ろはやはりパノラマ。木枠の窓から眺めるミラノの街並も美しいです。

  

うっとりしていられたのも束の間。とても残念なことに、1番のトラムはホテルがあるナヴィリオまでは行ってくれないので、たったふた駅で乗り換えなくてはなりません。名残惜しいけれど、またいつか。チャオ!

     

降りたのはコルドゥシオという広場。地下鉄の駅があるからでしょうか、あまり当てにならない路線図によれば、ここで6系統ものトラムが交わるようです。私たちは2番に乗り換えて、ナヴィリオへ帰ります。記念に信号機をパチリ。

     

もうすぐミラノともお別れです。イタリアの夏は日没が遅く、8時くらいまで平気で明るいので、貧乏性のもったいない精神がむくむく。疲れているのにまた運河沿いを散歩してしまいました。古書店に入ったら日本の古い建築雑誌がたくさん積まれていたので、1冊の値段を訊いてみましたが、バラ売りはできないとのことでした。

ほかにも、新刊書店や古道具屋、アクセサリーショップ、ガラス張りのアトリエなどが軒を連ね、なかなか飽きさせません。立派な教会や、昔の共同洗濯場の跡なども残っています。毎月最終日曜日には、ここで骨董市も開かれるそうです。

  

さて、暗くなってきたのでごはんにしましょう。節約のため、夕食はアペリティーヴォ(イタリア式ハッピーアワー)ですませることにして、ホテル近くのオフィチーナ・ドーディチという店に入りました。こちらは元工房を改築したレストラン。高い天井が印象的です。

真ん中の仕切りでレストランとバーが分けられていて、私たちはバーの方に案内されました。こちら側には誰もいません。7ユーロでドリンクを頼むと、あとは並べられたおつまみが食べ放題になるので、さっそくカウンターに向かいましたが、そこで目が点。オリーブにバゲット、ポテトチップス、ドンタコス、サルサソースくらいのものしかありません。おつまみと言えばまあそれで十分ですが、初日に体験したアペリティーヴォにラザニアや茄子のグリルなどが並んでいたことを考えると、なんともさみしい品揃えです。

もそもそポテチをかじりながら、あとでサンドイッチでも買おうかと思っていると、もうひと組アペリティーヴォのお客さんが来ました。

そしてしばらくすると、テーブルに焼き立てあつあつの生ハムピザが運ばれてきたのです。あとから来たひとたちと、半円ずつ分けられているようでした。

お店の側も、いくらなんでもと思ったのでしょうか。おかげでおなかはふくれましたが、生ハムの塩気につられて、もう1杯ビールを追加注文。お会計は18.5ユーロでした。

 
こうしてミラノ「最後の晩餐」は幕を閉じたのでした。
明日はユーロスターイタリアに乗って、水の都ヴェネツィアへむかいます。(N)

イタリアでも東奔西走の記
2012.9.1 その4 ミラノ

ムジェッロ街のアパートメントから、トラムの走る通りに沿って東へ歩くこと15分、道路にかかる三ツ橋に到着しました。

   

橋をくぐると、すぐ脇に立派な建物が数棟並んで建っていました。
これが須賀敦子の夫・ペッピーノの実家だった鉄道官舎です。

      

決して楽ではない暮らしぶりや、ペッピーノの家族を覆う死の影にふれた須賀敦子の描写から、くすんだ灰色に沈む暗い建物を想像していたので、からりと明るい佇まいに少し驚きました。

大竹昭子さん『須賀敦子のミラノ』によれば、この官舎は国鉄の所有を離れて一般に払い下げられたときに、大幅に改装されたのだとか。もとの外壁はコンクリートの色だったというので、勝手に抱いていた灰色のイメージは、あながち間違っていなそうです。

ペッピーノの父親が詰めていた信号所は、鉄道官舎から30メートルほどのところにあったのですが、今は新しい信号所に併合されて、その役目を終えています。きょろきょろしてもそれらしき建物は見当たらなかったので、あるいはもう解体されてしまったのかもしれません。三ツ橋の上を走る列車も、きっとあのころとは違うものなのでしょう。

   

鉄道官舎からさらに東へ行くと、国内線と短距離国際線を主要な路線とするリナーテ空港があります。そのためこのあたりは建築制限が厳しく、私たちの頭上にはがらんと大きな空が広がっていました。ナヴィリオの環、城壁の環につづいて、この三ツ橋を渡る線路が、またひとつ街の区切りになっているようにも思えます。

さて、ふたたび27番のトラムに乗って、街の中心ドゥオモまで引き返します。

   

先ほどのスーパーで用を足しそこねたので、だんだん切迫した状況になってきました。ドゥオモに着いたらカフェにでも飛びこもうかと思っていたのですが、そういえば広場の脇に百貨店のようなものがあったと思い出しました。入ってみると、万歳、ちゃんとお化粧室がありました。

みんな考えることは同じなのでしょう。長い列に並んで個室に入ると、あれ?便器に便座がない……。以前マレーシアでも同じようなトイレに遭遇しましたが、あれはいったいどう使えというのでしょうか。いまだに正しい使用法がわかりません。

なにはともあれ、危機を脱して一安心。今日も美しいドゥオモをパチリ。

   

あ、こんなところにボブ・ディラン

   

おっと、ディランに気を取られて注意力散漫になってはいけません。広場には押し売りがたくさんいるし、どこにスリやひったくりが潜んでいるかわからないのがイタリアです。ハトのエサを押しつけようとするひとや、ミサンガを巻きつけようとするひとを振り払い、バッグを抱えるようにして歩きます。

イタリアを訪れたことのある友人たちから、鞄のチャックを開けられたとか、ツアー同行者がカメラを盗られたとかいう恐ろしい話を聞かされてきたし、村上春樹の奥さんだってバッグをひったくられたというのですから、否が応でも慎重になります。(『遠い太鼓』参照)

かちこちの私たちが次にむかったのは、須賀敦子の時代からミラノ一おしゃれな通りと言われているモンテ・ナポレオーネ通り。高級ブランド店が軒をつらねる通りなのですが、残念ながらブランド品など買う余裕のない私には、歩道が狭くて歩きづらい、という印象しか残りませんでした。

通りを抜けると、地下鉄3号線のモンテ・ナポレオーネ駅へ出ます。ここで愛しの1番トラムと再会。せっかくなので、少しだけ乗ってみることにしました。

その5につづく。(N)

イタリアでも東奔西走の記
2012.9.1 その3 ミラノ

目的地とは反対方向のトラムに乗って、終点まで行ってしまった私たち。折り返し運転をするというので、そのまま乗っかって、今度こそ須賀敦子の暮らしたアパートメントのあるムジェッロ街を目指します。

さっき見たよ、ここから乗ったよ、という場所を苦笑しながら通り過ぎ、27番のトラムに揺られること30分。車内アナウンスなどないので、いまいちあてにならない路線図と地図を突きあわせて、ここだと思われるところで下車しました。

ムジェッロ街はすぐに見つかりました。真ん中に緑地帯の設けられた、ふとい通りです。大竹昭子さんの著書『須賀敦子のミラノ』によれば、そのアパートメントは角から2番目の建物だとか。ということは、これがそうですね。

     

須賀敦子と夫ペッピーノは、1階の部屋に住んでいたそうです。この部屋で客をもてなし、ここから、今はなき35番のトラムに乗って、街の中心にあるコルシア書店へ出かけていったのですね。重厚な石造りのアパートメントを見つめていると、コルシア書店(現サン・カルロ書店)を見たときとはまた違う、どこかしんとした気持ちになります。

ムジェッロ街から27番のトラムに沿ってまっすぐゆくと、ペッピーノの家族が暮らした鉄道官舎があるというので、そこまで歩いてみることにしました。

ミラノに来て3日目、空にトラムの架線がかかる眺めにもすっかり馴染みましたが、ここの架線はどこか様子が違うように見えます。はて、どうしてだろうと考える私の目の前を、トロリーバスが!なるほど、そのための架線だったのですね。心の準備ができていなかったので、きちんとバスの姿を捉えることができませんでした。

  

足元には、これまた見慣れたトラムの線路が。でもたどっていくと、線路の上に車が停められています。あるいはここを35番のトラムが走っていたのかもしれません。

  

ナヴィリオの環からも城壁の環からもはずれた「外」の街は、中心部とは建物の雰囲気も少し違う印象を受けました。トラムの走る大通り沿いには、さほど古くない高層の建物が、横道には、中心部ではほとんど見かけなかった低層の住宅が並びます。

   

スーパーがあったので立ち寄ってみました。さすがイタリア。ハムとサラミだけでこの品揃え!もちろんワインもよりどりみどりです。(本当はお化粧室を拝借したくて入ったのですが、見つからずに退散したことは、ここだけの秘密です)

  

須賀敦子がこの街に暮らしていた1960年代には、きっとこんなスーパーはまだなくて、メルカート(市場)や個人商店で買い物をしていたのではないでしょうか。 
やがて正面に目印の三ツ橋が見えてきました。鉄道官舎はもうすぐです。

その4につづく。(N)

イタリアでも東奔西走の記
2012.9.1 その2 ミラノ

かつてヨーロッパには、城壁に囲まれた多くの城塞都市がつくられましたが、ミラノもそのひとつでした。

城壁があったころの名残は、「ポルタ」という地名に表れています。

イタリア語で「ポルタ」というのは、「門」のこと。城壁の環のところどころに、ポルタ・ティチネーゼ、ポルタ・ロマーナ、ポルタ・ヴィットリア、ポルタ・ヴェネツィアなどの地名がつけられ、かつてそこに城門があったことを偲ぶよすがとなっています。

街の中心にあるのは、私を興奮させたドゥオモ(大聖堂)です。その建設資材運搬のために環状のナヴィリオ(運河)が掘られ、のちに埋めたてられたことは、以前書いたとおりです。

つまりミラノは、ドゥオモを中心とした同心円状に、運河、城壁という二重の環に囲まれていたことになります。
 
城壁もナヴィリオも、今は環状道路になっていますが、須賀敦子は、この環はミラノの人々にとって特別な意味を持つものだと書いています。

「ナヴィリオの内側と外側が、いわば正規の外郭である城壁以前にひとつの区切りを作っていて、外側の人々が話すミラノ弁は、正統とはみなされない、と友人のガッティに聞いたことがある。」(須賀敦子さくらんぼと運河とブリアンツァ」『ミラノ 霧の風景』)

「彼らはこの運河の「環」の内側に住むことに、実体がすがたを消した現在でも、かたくなにこだわりつづけ(あるいは、それをあきらめ)、「中」の人種は、「外」の人種を、そんなことはないといいながら、たしかに軽蔑しているし、戦前までは、中と外で話されるミラノ弁までがちがったとも聞く。」(須賀敦子「街」『コルシア書店の仲間たち』)

そんな須賀敦子の暮らしたアパートメントは、ナヴィリオの環からも城壁の環からもはずれた「外」にありました。私たちはミッソーリ駅から27番のトラムに乗って、街の東側を目指しました。

やってきたのは3両編成の長いトラム。オレンジが効いています。

今回もいちばん後ろに陣取って、流れゆく車窓を楽しみました。
窓の汚れのおかげで、ちょっぴりふわっと幻想的な雰囲気に。

 

あ、お気に入りの1番トラム。

あれ?でもよく考えたら、1番と並走する予定はありません。1番が街の北部を横断するように走るのに対して、私たちは街の中心から東部へむかっているはず。なんだかおかしい……。

と思ったら、やはり反対方向のトラムに乗ってしまったのでした。あらら、どうしようと考えている間に、トラムは終点につきました。ミラノ見本市会場らしき建物が見えます。

伸びをしている運転手さんに地図を見せて、ここへ行くかと尋ねると、折り返し運転をするから行くよ、との答え。そのまま乗っかって、来た道を引き返すことにしたのでした。

その3へつづく。(N)

イタリアでも東奔西走の記
2012.9.1 その1 ミラノ

雨の朝です。ケーキ比率の高い朝食をいただき、地下鉄に乗って、世界遺産に指定されているレオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』を観に行きます。

こちらは完全予約制。絵画が傷むのを防ぐために、各回25人、15分の見学と決まっているのです。私たちは日本にいる間に、インターネットから10時15分の回を予約しました。見学料6.5ユーロに、予約料1.5ユーロがかかります。

初日にマルペンサ・エクスプレスに乗って到着したカドルナ駅から、てくてく歩くこと10分。『最後の晩餐』のあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に到着しました。(直訳すると「聖母マリア様ありがとう教会」?)

『最後の晩餐』は、左手にある修道院の食堂に描かれています。一般的に、壁画はフレスコ画という手法を用いて描かれるのですが、ダ・ヴィンチはあえて油絵で描いたのだとか。おかげで傷みが激しく、1498年の完成以降、何度も修復が繰り返されているそうです。

ガイドブックの写真で観るよりも、実物のほうがずっと繊細で、絵画にはとんと疎い私たちもぐっと惹きつけられました。予約は少々面倒ですが、これは一見の価値ありです。

教会のすぐ横をトラムが走ってゆきます。古い車両ならなお良し。

さてお次は、サンタンブロージョ教会へ行ってみましょう。

教会の手前にあった門をパチリ。
おや、おやおや?なにか見えませんか?拡大して確認。

 

やっぱり!イタリアに来てはじめての「家跡」でした。

そしてこちらが、ミラノ最古の教会として知られるサンタンブロージョ教会です。建設に着手されたのは、なんと386年!4世紀です。それから何度も改修を重ねているそうですが、聖堂内部の漆喰の天井や壁は9世紀のものだとか。いずれにしても古いです。

聖堂のなかへ入ってみると、なにやらセレモニーが執り行われていました。おしまいには拍手と歓声、そして抱擁しあう人々。9月1日だったので、ひょっとすると大学の入学式とか修道院の入院式(?)とか、そういうものだったのかもしれません。中庭にはお花を積んだ車が停まっていました。

 

サンタンブロージョ教会のお隣には、カトリック大学がありました。
その脇の路地を抜けると、かわいい落書き、うれしい青空。

  

目指すは27番のトラム。ミラノの北西部から中心を抜けて、街の東部にある須賀敦子とペッピーノが暮らしたアパートメント、さらにペッピーノの実家である鉄道官舎までを結ぶ長い路線です。須賀敦子の小説では35番となっていますが、これは路線が延長されたときになくなり、代わりに27番が走るようになったそうです。

その前に、腹ごしらえ。地図に載っていた「カラフリア・ウニオーネ」という店に入ってみました。

海老とズッキーニのサラダ、魚介のパスタ、サフランのニョッキ、エスプレッソ2杯、水、コペルト(席料)で34.9ユーロ。例によって、サラダにはオリーブオイル、バルサミコ酢がボトルごとどすんとついてきました。

おなかがいっぱいになったところで、ミッソーリ駅から27番のトラムに乗ります。

その2につづく。(N)

イタリアでも東奔西走の記
2012.8.31 その4 ミラノ 

たどり着いたスフォルツェスコ城は、なんだかはりぼて感でいっぱい。
これはいったいどうしたことでしょう?

あ、修復中なんですね。工事用シートに修復中の建物の写真をプリントし、なおかつ修復費用を負担している企業の広告を載せる、というのがイタリアのスタイルのようです。街中広告だらけという日本とは違って、広告規制が非常に厳しいイタリアならではのやり方ですね。

企業にとっても、こういうことで社会貢献していると宣伝できる、またとないチャンスになっているのでしょう。これはうまいことを考えたものです。ふむふむ。

ところでこのはりぼて写真工事シート、どっかで見たことあるような……。
思い出した!台湾だ!

こちらは2011年夏の臺北郵局(郵便局)。イタリアのような企業広告こそありませんが、こういう手法はヨーロッパに倣ったのかもしれませんね。

ところでこのお城は、かつてミラノを支配していたヴィスコンティ家が建てたもの。映画監督のルキノ・ヴィスコンティはその末裔です。ところが15世紀に跡継ぎが死去すると、それを待っていたかのように、娘婿が一帯の統治権も財産もすべてスフォルツァ家の所有に変えて、お城も自分たちのものにしてしまったのだとか。いつの世にもちゃっかりさんはいるものです。

雲行きが怪しくなってきたので、ブレラ美術館に避難することにしました。ここにはラファエロベッリーニなどをはじめとする、14〜19世紀の絵画が展示されています。建物自体も17世紀のイエズス会のものだということで、とても趣がありました。

   

   
 
絵画を鑑賞している(と見せかけて休憩している)間じゅう、たたきつけるように降る雨と雷の音が聞こえていました。さきほどまでの青空が嘘のようです。

雨が弱まったのを見計らって、今度は地下鉄でスタチオーネ・チェントラーレ(中央駅)へ向かいます。明後日からの鉄道パスを有効にするため、前もってバリテーションという手続きをしなくてはならないのです。

さて、初めて乗るミラノの地下鉄はどんな様子でしょう。
意外ときれいで、落書きもありません。

でも地下鉄というと、どうしても盗られたスラれた気づかなかったの話ばかり思い出してしまいます。距離をつめてくる(ように思える)ひとや、じろじろ視線を投げかけてくる(ように見える)ひとから遠ざかり、バッグとカメラをぎゅっと握りしめて立っていました。

無事にたどり着いたチェントラーレは、ムッソリーニファシズム時代を代表する建築。まずは1階奥のカウンターでバリテーションを済ませました。それから乗り場もたしかめておこうと、いくつもの動く歩道を上っていきます。

   

するとそこには、撮り鉄の天国がありました!
(いえいえ、私がそうだというわけではありませんよ)

 

  

以前書いた通り、イタリアの駅には基本的に改札はありません。ですから、こうして誰でもホームまで来られてしまうのです。防犯の観点からするとちょっと不安ですが、旅情を味わうにはもってこいです。

さあ、長かった一日ももうすぐおしまい。地下鉄に乗るより時間はかかりますが、城壁跡をなぞるように走る9番のトラムで、ホテルのあるナヴィリオ・グランデ(グランデ運河)まで戻り、ピッツェリア・プレミアータで夕ごはんを食べました。

ペスカの紅茶というのがあって、「ペスカってなに?」と英語で質問すると、「うーん、とにかくおいしい果物だよ!」という答え。頼んでみたら桃でした。

ピザはちょっと冒険してアーティチョークにしてみたところ、まあまあのお味。ミックスグリルはボリューム満点で、どうがんばっても食べきれませんでした。

これにサラダ、コペルト(席料)をあわせて41ユーロ。この調子で食べ続けていたらお金がもたない、と気を引きしめたところで、ミラノ2日目がおわりました。(N)

イタリアでも東奔西走の記
2012.8.31 その3 ミラノ

コルシア・デイ・セルヴィ書店がまだあると知ったとき、私は心底驚きました。なにしろ私にとってコルシア書店というのは、遠い国の遠い時間のおはなしのなかで、ひっそり輝く場所だったからです。

正確なことを言えば、須賀敦子が関わったコルシア書店はもうありません。1970年代初め、政治色を強めたコルシア書店が立ち退きを余儀なくされたあと、修道会が経営を引き継ぎ、同じ場所で「サン・カルロ書店」という宗教関連の本をあつかう書店をはじめたのです。ですから正しくは、往時の姿をとどめる別の書店がある、ということになるでしょうか。

サン・カルロ書店は、その名のとおりサン・カルロ教会の一角にあります。ドゥオモのすぐ近く、きらびやかなショップが立ち並ぶ通りにありながら、少し後ろに引くようにして建つ教会に、足を止めるひとはほとんどいません。

「LIBRERIA SAN CARLO」と書かれた看板の下のガラス戸からなかへ入ると、眼鏡をかけたおじさんがひとりで店番をしていました。ああ、ここが、とまた感動がわいてきましたが、書店のなかなのでドゥオモを見たときのように叫ぶわけにはいきません。

もとは教会の物置だったという店内は、三角形とも台形ともつかない形をしています。書棚の上には回廊がめぐらされていて、そこにも本が並べられていました。

ひととおり棚を眺めたあと、店番のおじさんにおそるおそる「ポッソ・フォトグラーレ?(写真を撮ってもいいですか?)」と勉強してきたイタリア語で訊いてみました。てっきり「Si(Yes)」か「No」という返答がもらえるものと思いきや

「〇※▲◎×□▽◆*●△!◇◎※▼……!」

怒涛のイタリア語が返ってきてしまいました。しかも長い。
そうです、イタリア語で質問することはできても、答えを理解することまではできないのでした。こんなことならはじめから英語で訊けばよかったと後悔しても、あとの祭りというものです。

でもおじさんはぺらぺらしゃべりながら、満面の笑みで部屋全体を指し示すような動作をしていたので、「もちろんさ!隅から隅までどこを撮ったってかまわないよ!」と言っていたのではないかと都合のよいように解釈をして、一か八か、試しに「グラッチェ(ありがとう)」と笑顔で言ってみました。するとおじさんはにこにこしながらレジへ戻って行ったので、おそらく解釈の方向性は正しかったのでしょう。ありがたく何枚か写真を撮らせてもらいました。

  


「夕方六時を過ぎるころから、一日の仕事を終えた人たちが、つぎつぎに書店にやってきた。作家、詩人、新聞記者、弁護士、大学や高校の教師、聖職者。そのなかには、カトリックの司祭も、フランコの圧政をのがれてミラノに亡命していたカタローニャの修道僧も、ワルド派のプロテスタント牧師も、ユダヤ教のラビもいた。そして、若者の群れがあった。(中略)書店のせまい入口の通路が、人をかきわけるようにしないと奥に行けないほど、混みあう日もあった。」
須賀敦子「銀の夜」『コルシア書店の仲間たち』)


そんな往時のにぎわいを思い浮かべながら、サン・カルロ書店をあとにしました。

  

ドゥオモに戻ると、順光になっていたので、もう一度パチリ。こうして写真を見返しているだけで、また叫びたくなってしまうほど美しいです。

ガッレリアを抜け、スカラ座とマンゾーニの家を外から眺め、スフォルツェスコ城を目指す途中で1番のトラムと再会。なんて絵になる街なんでしょう。トラムの速度にあわせてゆったり走る車たちもいとおしくなります。

あ、本屋さん発見!

そして正面に見えてきたスフォルツェスコ城は……、ん?なんだか様子がおかしいぞ。

その4につづく。(N)